株式会社平松食品 平松 賢介

Guest Profile

平松 賢介(ひらまつ・けんすけ)

1961年愛知県生まれ。84年北里大学水産学部水産食品学科を卒業、同年惣菜メーカーの岩田食品株式会社に入社。業務全般に従事し、食品メーカーとしての経験を積む。87年、実家である山安平松食品(資)に入社。88年株式会社平松食品設立、専務取締役に就任。2000年、HACCP対応の御津向上竣工を機に、代表取締役に就任。愛知県食品輸出研究会会長、全国調理食品工業共同組合常任理事(東海北陸ブロック会会長)、愛知県調理食品工業協同組合理事、豊川市観光協会副会長、豊橋商工会議所食品業部会副部会長も務める。

特集【おもしろい会社の成長戦略】伝統を卸旗に掲げ、「パブリックブランド」&”サムライ・キュイージーヌ”で未来を切り拓く

1.情報番組で紹介され佃煮が品切れ商品に

佃煮といえば、間違いなく日本の伝統色のひとつだ。その佃煮カテゴリーのある商品が、人気アイドルタレントが司会を務める情報系番組の「ごはんの友特集」で取り上げられた。『愛知丸が釣ったかつおとしょうがのごんじゅれ』という商品で、番組での紹介後、ネット通販等でたちまち品切れとなった。

この商品を製造販売しているのが、1992年創業の平松食品だ。同社が事業を展開する愛知県東三河周辺は、小魚、貝、海苔等の豊富な海産物が獲れ、調味料である醤油やみりん、味噌等の生産地が近隣にあり、陸軍師団が置かれ軍隊の保存食としての需要があったことなどから、国内でも主要な佃煮の産地として教えられてきた。

しかし「豊橋の佃煮メーカーの多くは、大手食品会社の下請け型で成長してきたため、製造技術はあるものの、家内工業的であり営業力をほとんどもたなかった」(平松賢介社長)。そうしたなかで、同社は思い切って近代化への舵を切った。現社長の平松賢介が修業先の惣菜会社から戻ってきた翌年(1988年)に、業界屈指の新工場を建設し、合資会社から株式会社に変更した。当時の社長である史朗氏(賢介の父)が専ら製造技術面を、一方、賢介は佃煮や平松食品を世に発信する役割を担うという二輪体制で事業を成長させた。

さらに2000年、賢介が社長に就任すると、HACCP対応の新工場に建設した。
「その2年前に、中国に原料調達に行く機会があった。中国で見た工場じゃ、当社より近代化が進み、衛生管理ができていた。このままではやられる。そう確信し、新工場の建設に踏み切った」

ある大手流通チェーンから指定工場の候補として声がかかった。残念ながら同チェーンからは指定工場の候補として声がかかった。残念ながら同チェーンとの取引は「設備は十分だが、管理方法、社員教育が不足している」ということでかなわなかっらが、そのとき「会社として足らざることを知った」という。

どうすれば社員が育つのか。平松は修業時代のQCサークル活動を思い出した。03年に品質マネジメントシステムの国際規格ISO9001と、食品の安全性確保のための製造システム企画HACCPを取得。05年には食品安全マネジメントシステムに関するISO22000を日本国内で初めて取得した。
「国際規格に合わせるとなると、これまでどおりのやり方ではすまなくなる部分もある。『そこまでする必要があるのか』と疑問に思う社員もいた。それでも『われわれの商品を外国に出そうよ』と夢を語り、そのために『世界標準のHACCPが必要なんだよ』と納得してもらった」

こうした品質管理の徹底路同時に、自社製品の海外への発信も始めた。食品分野を中心とした製品の技術的水準を審査する「モンドセレクション」への出品だ。05年、初めての出品で『さんま蒲焼』『いわし甘露煮』がいきなり金賞を受賞した。

同じ年には別の嬉しいこともあった。5年前に「指定工場として不可」の烙印を押され悔し涙を飲まされたあの大手チェーンから再び声がかかったのだ。「この5年間、いくつもの工場を見て回ったが、御社以上の工場には出会えなかった。ソフト面も十分備わったようですから、今度こそ取引を始めましょう」。あの時と同じ担当者からの言葉だった。

2.食メーカーに声をかけ輸出研究会を立ち上げる

社員たちに”夢”と語った海外進出にも着々と歩みを進めている。

モンドセレクションへは毎年のように出品、毎回、金賞以上を受賞、海外でも同社製品の名前が知られるところとなった。しかしそれだけではない」こともわかっていた。
「ほとんどの人にとって、佃煮は知らない世界彼らが知っている味の世界の言葉を補う必要があった」

そのために数々の食のプロに会い、教えを乞うた。そして「醤油+砂糖の独特の旨み・風味」=「テリヤキ」にたどりつき、ついに11年、「TERIYAKI FISHシリーズ」として世界同時発売を実現させた。

もちろん、これはまだ夢のほんの一部でしかない。
「日本人にとって佃煮は食材だが、海外では調味料に近く、優先度も低い」。そう考える平松は、同社同様に海外進出に意欲的な愛知県内の食材メーカーに声をかけ、11年8月「愛知県食品輸出研究会」を立ち上げた。

「愛知県の食品は”名古屋メシ”からもわかるように、味に個性が強いものが多い。それであれば各社単体で戦うよりも、個性的な団体として出ていくほうが成果につながりやすいのではないか」

佃煮、八丁味噌、白醤油、みりん、きしめん、お茶等々、愛知の食をまとめて”サムライ・キューイジーヌ”として世界に発信することに決めた。具体的には、海外のシェフに各々の素材を提供すると同時に、飲食店のディレクターといっしょになってメニュー作りや経営戦略など一連の取り組みをしていこうという方向性を打ち出している。

3.これからの開発の基本は地域が応援してくれる商品

国内向けには、冒頭で触れた『愛知丸が釣ったかつおとしょうがのごはんじゅれ』に代表される地域ブランドづくりに力を注ぐ。そもそもこの企画は、6年ほど前に地元の水産高校(三谷水産)から「愛知丸での船上実習で獲ってくる鰹で何かできないか」という依頼が平松のもとに入り、スタートしたものだ。

「高校生が釣ってきたものを、我々が商品化するという単純なものではなく、主役はあくまで高校生、彼らの新しい感性を活かして、商品企画からプロモーション活動まで一緒に取り組みましょう、という提案をした」

当時は、高校生ブランド、高校生レストランが流行っており、大手コンビニで商品化されたものもあった。しかし、それらが結局、一過性のブームで終わったのとは対象的に、愛知丸ごはんシリーズは、その後もラインアップを広げ、何度も情報番組で取り上げられるなど、商品化している。
「愛知丸ほなんシリーズをやってよかったのは、地元のひとたちや卒業生たちが喜んでくれたことだ。食の市場が縮小していくなかでも、地域が応援してくれるような商品を作ればいいんじゃないか」

地域性があり、公共性も感じられる商品を、新たに「PB(パブリックブランド)」と呼び、これからの商品開発の基本に考えていくという。
「伝統は時間がつくってくれた”御旗”。佃煮という軸足ははずさず、いまある自分たちのポジションを確認しながら、未来を切り拓いていく」

平松賢介をこう締めくくった。

TO PAGE TOP